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【2021年】初詣:神社参拝の意味と正しい参拝の所作 神様への願掛けの方法

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新年の行事といえば初詣。

友人やご家族連れで参拝をされる場合が多いと思いますが、初詣ってなんでやっているの?…そもそもを尋ねられて即答できる方ってどのくらいいるのでしょうか。

なんとなく、お正月に神社やお寺を参り、お賽銭を投げて願掛け、おみくじを引いてりんご飴買って…みたいな感じの初詣ですが、少し日本の伝統文化である“初詣”について、正しい所作と正しいルールを知った上で、参拝してみては如何でしょうか。

ということで、「初詣:神社参拝の意味と正しい参拝の所作 神様への願掛けの方法」として、初詣について調べてみましたので、一緒に確認して参りましょう。

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初詣とは〜「初詣」という行事(神事)について

初詣(はつもうで)とは、年が明けてから初めて神社や寺院などに参拝する行事。
一年の感謝を捧げたり、新年の無事と平安を祈願したりする。
初参・初参り(はつまいりともいう。
出典:ウィキペディア

上記のとおり、初詣の目的は、
①1年の感謝を捧げる
②新年の無事と平安を祈願する

この2つが主な目的のようです。
その歴史は古く、鎌倉幕府の開幕の頃(1192年前後)、源頼朝が鶴岡若宮に参詣したことが、初詣が広まるきっかけになったとの逸話があるほど。

約800年の歴史ですね。
元々は「年籠り(としこもり、としごもり)」と言い、家長(いえながではなくて、この場合はかちょう:おうちで一番偉い人)が祈願のために大晦日の夜から元日の朝にかけて氏神神社に籠(こも)る習慣が、初詣の原型と言われています。

時は流れ、やがて「年籠り」は、大晦日の夜の「除夜詣」と元日の朝の「元日詣」との2つに分かれ、「元日詣」が今の初詣の原形となりました。

江戸時代末期までの元日の社寺参拝としては、氏神神社に参詣したり、居住地から見て恵方にあたる社寺に参詣(恵方詣りといいました)したりといったことが行われていたようです。

ですが、「年籠り」形式ではなく、単に神社やお寺に「元日詣」を行うだけの初詣が習慣化したのはそれほど古い時代ではなく、明治中期あたりから。

また、その頃から氏神恵方とは関係なく、有名な神社やお寺に参詣することが一般的になり始めます。
現在でも、除夜に一度氏神に参拝していったん帰宅し、元旦になって再び参拝するという地方があり、これを“二年参り”といいます。
現在では、長野県や新潟県にそのような風習が根強く残っているそうです。

参拝の美しく正しい所作について

ひとつずつ確認していきましょう。

鳥居をくぐる

鳥居は神様の住む世界と現世との結界を意味します。
ここから参拝がスタートしますので、礼節をわきまえながら進みます。
お辞儀をして真ん中から進むのではなく、少し横を通歩きましょう。
鳥居は神様のお住いの玄関ですので、鳥居をくぐらないのはNG、我が家にお迎えするお客様も、玄関から入ってこない人って失礼と感じますよね?神様も同じ気持ちですよ。

手水舎(ちょうず)で手と口を清める

参道に入ると、すぐに手水舎(ちょうず)があります。

右手に柄杓(ひしゃく)を持って水を汲み、左手を洗う

左手に柄杓を持ち替えて右手を洗う

右手に柄杓を持って水を汲み、左手に水を受け、口に含んで口中をすすぐ

このとき、重要なマナーがあります。
★柄杓に口は付けないこと
★口に含んだ水は、柄杓などには戻さない

口に含んだ水は、口の中を注ぎ終わったら、手水舎下の砂利の部分(排水部)に、吐き出します。
柄杓に残っている水で柄杓自体を清め、柄杓を元の場所に返却します。
その際は、水の入った柄杓を垂直に立てて、水を柄の方に流しかけるようにして手に持った部分を清めてください。

参道は真ん中通行を避けて進む

そこまで固苦しく考えなくても良いとされる方も実際にはいらっしゃいます。
いらっしゃいますが、そもそも神社への参拝は、“感謝の気持ち”を神様にお伝えに行くことが目的であり、であるならば、できるだけ謙虚な態度を心がけるのが望ましいと考えられ、やはり、真ん中を歩くことは避け、謙虚にお参りされるのが、道義的にオススメです。

まぁ、“ルール”と考えるとアレなので、“マナー”と考えましょう。
※この後、願掛けもありますし(下心)

鈴を鳴らしてお賽銭箱にお賽銭を入れる

これは神社やお寺によって、事情が異なります。
大人気の神社から、地元に愛される静かな氏神様まで、参拝客の多さによって賽銭箱と自分との距離が変わります。

本当であれば、神様に向き合い、じっくりと1年の感謝とお願いをしたいところですが、あまり時間をかけられない場合もあります。
ですが、ともあれ、“静かに投げ入れる”ことは肝に命じてください。
オーバーハンドスローではなく、できたらアンダーハンドスローです。
お賽銭は神様にお供えするものであることに違いはありませんので。

鈴も静かめにお願いします。
音がなることで、神様とつながります。音量の大きさではありませんのでご安心ください。

礼拝

礼拝の方法はご存じかと思われますが、「二拝(2回おじぎ)→二拍手(2回拍手)→一拝(1回おじぎ)」が基本です。
ただこれ、神社によって異なり、例えばかの有名な出雲大社では、「二拝(2回おじぎ)→四拍手(4回拍手)→一拝(1回おじぎ)」が正式な参拝のお作法なのだそうです。

願掛け(お願い事)について

初詣の目的は、
①1年の感謝を捧げる
②新年の無事と平安を祈願する

この2つが主な目的でした。
まずは1年の感謝を神様にお伝えしましょう。
家族や大切な人が、無事暮らしてこられた1年について神様に感謝をします。
そして、本来はこれで終わりです。神様に感謝をお伝えできるだけで良しなのです。

格式の高い神社、例えば、伊勢神宮だと、お願いができる神様は決められており、その神様以外には、報告と感謝の意をお伝えするのみなのです。
とはいえ、願掛けも合わせてお願いしたい場合、お願い事のお伝えの仕方は、“ずばり1つに絞って”お願いして下さい。 

<ご参考>ご不幸があった場合の参拝について

神社参拝・神棚のおまつりについては、同居の親族にご不幸があった場合であっても、50日を過ぎれば、神社参拝や正月のお札をおまつりすることに差し支えはありません。
故人との関係によりますが、一般的には親・配偶者は50日、祖父母は30日、兄弟姉妹・子どもは20日とされており、いわゆる親戚の場合、3日程度とされています。

もし年末(11月〜12月)にご不幸があった場合は、神社への参拝は遠慮しましょう。
ただし、祝い事や行楽・旅行等を控えるのは神道・神社の場合の考え方で、お寺にお参りされることは問題ありません。
お寺の場合は、仏教では死を穢れと考えていないので初詣は問題ありません。

まとめ

「初詣:神社参拝の意味と正しい参拝の所作 神様への願掛けの方法」についてお調べしてみましたが如何でしたでしょうか。
日本の風習として鎌倉時代から脈々と続けられてきた初詣という行事に、これだけの文化と意味があることに、改めて驚きを覚えます。

と同時に、昔から今へと日本人が受け継いできた伝統と文化を、次の世代に伝えていかなければいけないという思いを新たにしました。
“たかが初詣、されど初詣”、正しく行っても無頓着(失礼!)に行っても、同じ時間とお賽銭を納めるのであれば、少しでも伝統にかなった所作と正しい理解で参拝し、気持ちよく新年を迎えたいと思いましたが、如何でしたでしょうか。

「初詣:神社参拝の意味と正しい参拝の所作 神様への願掛けの方法」について、ここまでお読み頂きまして、ありがとうございました。

皆様にとりまして、良い新年が迎えられますように。

 

自己損傷行動のパラドックス:なぜ人間は体に悪いことを好んでするのか?

 

なぜヒトはタバコを吸い、お酒を飲み、薬物に手を出すのか?

タバコ、お酒、ドラッグなどの禁止薬物は、どれも医学的に健康によくないことが広く知られています。でも、みなさんご存じのとおり、多くの人がそれらを口にしたり、注射したり、吸引したりして摂取しています。
自らを傷つけるこうした行為は、中南米のいわゆる原始的とされる部族といわれる集団から、文化的とされる大都市の人々にまで今でも広く行われています。

また、有害薬物の摂取ではなくても、自分に危害が及ぶような“危険な行為”にのめり込む人も同様に危険に手を出しているという点では共通しているようにみえます。

ここで疑問が湧きます。
なぜヒトは有害であることを知りつつも、進んでこのような有害な薬物を摂取したり、危険な行為を行ったりするのでしょうか。
動物の世界と対比することにより、その動機について考えてみましょう。

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長い尻尾の理由

イスラエル生物学者アモツ・ザハヴィが1975年に発表した論文が興味深いので紹介します。ザハヴィいわく「動物の行動について、大きな損失や自滅的な信号が果たす役割について、雄の生存を困難にする特徴そのものが、雌を惹きつけるのだ」というのです。

どういうことかと言いますと、一部の鳥が尾羽を長くしたり、羽の色を派手に飾り立てたりすることは、逆に飛ぶことを困難にしたり、捕食者であるタカを誘い込んでしまうリスクを伴っているように見えます。
が、その分、オスがメスを誘い込む手助けになっているというのです。

例をもうひとつ。
アフリカに生息するウシ科ブラックバック族のガゼルは、ライオンに狙われた時に“ストッティング”という行為を行うことで知られています。
これは、ライオンに狙われているのを認識すると一目散に逃げ出す代わりに、脚を伸ばしたまま空中に跳び上がることを繰り返すのです。

この行為は客観的にみても大変危険で自滅的な行為であり、ライオンに襲い掛かられる時間を与える機会を作っています。
が、ストッティングを行うことにより、「自分を狙っても捕まえられない、自分は余裕で逃げ切るから時間とエネルギーを自分を捕獲することに無駄に費やしてはいけない」というメッセージを伝えている信号であると考えられているのです。

つまり、動物にとって危険をもたらすような信号は、その信号が動物に不利を強いるからこそ、そのような行為を行うにも関わらず生き延びている雄だからこそ、尻尾の長さ以外の点や足の速さに優れた遺伝子を持っているとメスから認識され、子孫を残す可能性を高めていると考えられているのです。

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危険ではあるが対価が大きい行動

高い地位を得ようと人間が行う行動にも、これらの事例があてはまると考えられる行為があります。例えば、素敵な女性に対して、高価な物を贈って口説いてみたり、スポーツカーや財産をひけらかすのも、一部の鳥にとっての”長く鮮やかに進化した羽尾”と同じことなのです。

薬物乱用も同じく、自分の地位を世間に認めさせようと多くのエネルギーを使う中で、鳥やガゼルのような無意識に誇示行動を取る本能があるのではないかとも考えられています。

もしかしたら1万年前のとある部族の若者の間には、このように危険行動や危険薬物を摂取することで、「自分はこんな危険な行為ができる実に勇敢な者だ」、「自分はいくらアルコールや薬物を摂取しても普通に生活ができるタフな男なのだ」と部族の美しい女性にアピールをしていたのではないでしょうか。

一部太平洋の部族に残っている、“バンジージャンプ”という祭りの際の儀式も、成人を迎えた男子が自己顕示のために行う行動に見えます。
また、刺青(タトゥー)なども、痛みに耐える忍耐力と感染症に対する抵抗力について屈強ぶりをアピールできる行為です。

ですが、ここで疑問です。
刺青を入れている男性を魅力的と感じる女性はどの程度いるのでしょう?
もっと言いますと、薬物を摂取しても大丈夫とアピールしている男性を、魅力的に感じるでしょうか?

短い寿命しかない動物の間では、求愛で素早く伝わる信号を発達させなければならない事情があります。が、一方で、長い寿命を与えられている人間の間では、互いの価値観を値踏みするだけの時間は充分にあります。
特に現代のように寿命が著しく伸びている場合は、かつてのような薬物の乱用や大量の喫煙・飲酒などは、配偶者や子供に幸福を与える生活を提供できるのかという点において、誤ったメッセージを送ることになりかねません。

長い尻尾やストッティングはその動物の中ではコストを上回る利益(子孫を残せることや敵から狙われにくくなるなど)が得られると考える事ができますが、人間にとっての薬物乱用などは、むしろコストを上回る利益は生まれないと考えらます。

なので、少なくとも現代社会においては、自分の遺伝子を残すことを目的としたメスに対するアピールという価値観ではすでになく、ただ単に飲酒や薬物をやめられないのは毒性化学物質に依存してしまうためで、要するに薬物中毒の状態となるためであると考えても良いようです。

トッティングや長い尻尾の羽は、鳥もガゼルも中毒で行なっていることではないことだけは念のため申し添えておきます。

ジェノサイド:無くならない忌まわしき犯罪

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ジェノサイドを知る→ジェノサイドとは?

「ジェノサイド」という言葉を聞いたことがありますか?
定義としては、
「国家あるいは民族・人種集団を計画的に破壊すること。ジェノサイド条約第2条によれば、国民的、人種的、民族的、宗教的な集団の全部または一部を破壊する意図をもって行われる行為のこと」とされています。

よく知られているところでは、第二次世界大戦下、ナチスドイツがユダヤ人や少数民族に行なったジェノサイド(ホロコーストとも言われています)が有名ですし、最近では中華人民共和国が新疆ウイグル人に対してジェノサイドを行なっていると欧米各国から指摘されるなど話題となっています。
そもそもジェノサイドはなぜ発生し、そしてなぜ無くならないのか、“ジェノサイド”に対する賛否(もちろん否に決まっています)ではなく、なぜ発生し、なぜ無くならないのかを考えてみたいと思います。

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なぜジェノサイドについて考えなくてはならないのか

ジェノサイドについて考えることは気持ちの良いことではありません。
むしろ不愉快な歴史的出来事に焦点を当てる作業となります。ではなぜこのテーマについて理解を深める必要があるのでしょうか。それは2つの点が挙げられます。

★どの民族も絶滅キャンペーンの標的とされる可能性があること

★技術革新の結果、対人殺傷兵器は接近戦のそれからボタン一つで遠隔地の見たこともない民族数万人を殺せる大量殺戮兵器に進化し、集団殺戮に対する精神的な抵抗感・ハードルが下がっている可能性が高いこと

などです。つまり、なんとなくの空気や雰囲気で、日本人がジェノサイドの標的となる可能性もあるのです。

 ジェノサイドの事例

まず人間以外の動物で、ジェノサイドと呼べるような同種族に対する大量殺戮の事例があるのでしょうか。
実はあります。
近年の研究によると、動物が同じ種の動物を殺している例が記録されているようです。

非社会性の動物は単独行動をとるので、同種の動物を殺す場合は1対1で殺します。
しかし、ライオンやオオカミ、昆虫のアリなど社会性を持つ種の場合は、組織的な集団攻撃の形を取ります。種によって戦争の形態は異なりますが、雄を追放する、あるいは殺害するなどバリエーションがあります。

人間に近い種としてチンパンジーやゴリラでは、人間と同程度、仲間を殺していることが指摘されています。
ゴリラの場合、ハーレムの雌を巡って雄同士が争います。結果、勝者は負けた相手はおろかその子供まで殺します。
チンパンジーでも仲間を殺し、戦争を仕掛けることが知られています。しかも計画を立て、気配を消し、相手の縄張りに侵入して待ち伏せて相手の命を奪い、略奪を行うケースなどが報告されています。

類人猿のケースを見ると、人間の特質である集団生活がなぜ始まったのかという理由が垣間見えてきます。つまり、他の集団から身を守るために集団生活が始まり、さらに武器の性能が上がるたびにその必要性が高まってきたようです。
私たち人間は、捕食者でありながら同時に餌食であるため、必要に迫られて集団生活を開始したのではないでしょうか。

ただし、人間は動物ではありません。「人を殺してはいけない」・「人間は全て平等である」といういわば倫理観を持つこともできるはずですし、20世紀には世界は急速に狭くなり、密林でくらず部族のような見たこともない人類との遭遇も、滅多には無くなりました。なのに、なぜジェノサイドが起きるのでしょうか。

ジェノサイドに向かうステップ

まずは「自己防衛」が理由の場合です。
自分たちを守るためには集団殺戮を行います。ナチスドイツはポーランド軍ドイツ国境の施設を攻撃したと嘘をでっちあげ正統化しました。

次に「正当性」です。自身が信じる宗教や政治信条を他の民族や国と比較して進歩的・レベルが高いものだと主張し、自己を正当化します。

最後に人間扱いをやめるのです。ジェノサイドを起こした当事者は殺戮を正当化するために被害者を動物になぞらえます。ナチスユダヤ人を「シラミ」と呼び、フランス人はアルジェリアに住むイスラム教徒を「ネズミ」と、南アフリカに入植したオランダ人はアフリカ人を「ヒヒ」と呼び、人間とは別物とみなしました。

アメリカに入植したアメリカ人は、インディアンの扱いを正当化するために、白人は「自己防衛のため」、「文化の遅れている」インディアンを「野蛮な動物」と呼んで殺戮を繰り返しました。

ジェノサイドの歴史

<ジェノサイドの主な事例>※以下Wikipediaジェノサイドより引用

ホロドモール

ウクライナで1930年代に行われたホロドモール。ソ連による人為的な飢餓と弾圧により多くの人々が死亡した。犠牲者数は開きがあるものの、400万人から1,450万人と推定されている。なお国際連合および欧州議会では人道に対する罪として認定されている。

ルワンダの虐殺

ルワンダで1994年春に行われた虐殺。進行している虐殺がジェノサイドであると判断される場合は条約調印国全部に介入義務が生じるため、介入を避けようとしたアメリカほか調印国の抵抗により国連でその認定が遅れ、その際にジェノサイド的行為が行われていると見解を発表するにとどまった。虐殺終了後に事後的にジェノサイドであると認定された。

ナチスホロコースト

ユーゴスラビアにおけるユーゴスラビア紛争。
特にボスニア内戦時の民族浄化(国際司法裁判所は、1995年7月13日より始まったVRS(ボスニアセルビア武装勢力)によるスレブレニツァにおける虐殺をジェノサイド条約2条上の集団殺害と認定した。

ダルフール紛争

ダルフール紛争における集団虐殺。これは進行中の虐殺である。ジェノサイドであるとの正式な認定が国連で行われていないために強制的な介入は行われていない。 

オーストラリアのアボリジニ政策

オーストラリアのアボリジニの強制同化政策。オーストラリアの議会の調査書でこれが条約によって規定されるジェノサイドに当るとの見解が出されたが、行政府はこれに反発している。

アルメニア人虐殺

オスマン帝国アルメニア人虐殺。トルコ政府はこの見解に反発しているが、国際的には論争が続いている (詳細はアルメニア人虐殺)。
ターリバーンによるバーミヤーン渓谷の古代遺跡群における仏像の破壊。
2008年のチベット騒乱時に、ダライ・ラマ14世中華人民共和国によるチベットでのデモ活動の鎮圧などを文化的虐殺であると非難している。

チベット新疆ウイグル自治区
中華人民共和国は異民族を武力で支配下に置くチベット自治区ウイグル地方において文化的のみならず虐殺・弾圧を繰り返し、男性には断種手術を強行、チベット族ウイグル族の女性と漢民族の男性との結婚・逆らえば強姦するなど、民族浄化を強行していると、2020年から2021年にかけて、国際社会から指摘されている。楊海英も、中華人民共和国による内モンゴル人民革命党粛清事件についてジェノサイドとして論じている。

満州国

中国東北部で発生した1945年8月のソ連対日参戦によって、急速な満州国崩壊に伴い、混乱の中で取り残された日本人居留民が、現地住民や中国共産党と関係する共産ゲリラなどに、旧満州国地域にある通化という街において、虐殺や強姦など凄惨な行為を含んだ事実上の民族浄化に該当される行為を受けた1946年の通化事件があり、これを調査の上で国連に申請し、ジェノサイドに認定するべきとの専門家の声も増えている。この事件は発生が物証などから確認されている事象であり、組織的な関与の元で明らかな国際法違反が行われたと疑われている歴史上の事件であり、現在でも現場の都市名から「通化事件」といわれている。

 世界がどんどん狭くなり、高度でグローバルな情報化社会が広がる現在社会でも、ジェノサイドは世界のどこかで、現在進行形で行われています。

本来、人が人として生まれつき備わっているとされている基本的人権が、損なわれている社会が日本のすぐ隣の国にあることを、国際社会の一員である日本人はもっと大きな声を上げなくてはならないと思うのですが、皆さん如何でしょうか?

 

 

【2021年最新】ご不幸:喪中の際の初詣・神社参拝、お正月行事のNG集

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古くから日本では、家族や親族に不幸があった場合、私達は喪に服します。
これは、故人に対する哀悼の意を表すためのしきたり・風習であることと同時に、自分自身の深い悲しみと辛さを乗り越えるための期間とします。

では、身内に不幸があった場合、年始に迎えるお正月や初詣などはどのように過ごせば良いのでしょう。
あまりそのような不幸に見舞われたことがないので、この場合の対処の仕方について、「ご不幸:喪中の際の初詣・神社参拝、お正月行事のNG集」として、調べてみましたので、一緒に確認していきましょう。

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身内に不幸があった場合の神事について

古くから日本では、家族や親族に不幸があった場合、喪に服します。
いわゆる”喪中”という言い方をしますが、正確には、この期間のことを「服忌(ぶっき)」と呼びます。

「服」とは故人への哀悼の気持ちを表す期間で、このことを一般的に”喪中”と言います。
「忌」とは故人の祀りに専念する期間で、これを忌中(きちゅう)といいます。

この期間については、地域差があり、地域によって多少異なります。
異なりはしますが、故人を偲ぶ大切な期間であることには変わりありません。

ここで、一点、問題となるのが、一般的に「喪中」と「忌中」を同義語、または同じ用途で用いられるのですが、本来的には意味の異なる言葉です。
この服忌の期間に関しては、奈良時代の「養老律令」、江戸時代の「服忌令」などに見られ、現在の服忌期間の考えの元になったものは、明治7年の太政官布告「服忌令」といわれています。

ところが現在では、服忌に関する法律は存在しておらず、明治の「服忌令」が習慣・習俗として残っているのみです。

 

一般的には、「忌中」は四十九日の法要まで、「喪中」はほぼ一周忌まで、と考えられています。

喪中と忌中の違いについて

喪中とは

★精神的に故人を偲び、悲しみを乗り越えて通常の生活へと戻るための期間
★忌中を過ぎれば神社参拝などは行えます。

忌明け直後は、宴席などへの出席は控えましょう。
忌中を過ぎれば宴席はもとより、神事である神社への参拝、神棚のお参りなど、日常生活を営むことになんら支障はありません。

もちろん近親者が亡くなり、悲しみはあり心は沈むことと思います。
しかしいつまでもというわけにもいきませんので、ご自身のタイミングで、日常に戻らなくてはいけません。
悲しい気持ちのまま神様との接触を控えることを、最長50日と定め、これを「忌中」としています。

一方で、「忌中」から明け、段々ともとの生活に戻るため、少しずつ元気を取り戻すための期間、これを「喪中」といいます。
これは約1年間かけて元通りの心に戻るための期間です。
戻るための期間ですので、今まで控えていた神様との関係(参拝)も行ってよいのです。

忌中とは

★故人を偲び、御霊(みたま)を鎮める期間
★神事・結婚式のほか、お祝い会などへの出席を控える

忌中の期間について

故人との関係により様々で、また、地域により多少の差はあります。
一般的には両親・配偶者は50日、祖父母は30日、兄弟姉妹・子どもは20日とされており、親戚の場合、1~3日程度とされています。

忌中は故人を偲ぶことに専念する期間となります。
神社への参拝やお祭り、結婚式などのお祝い事への出席は控えるようにします。

神棚があるご家庭では、神棚に白紙を掛けお参りを控えます。
お正月をまたぐ場合は初詣も控え、神棚の御札は忌明け後に受けましょう。

忌中(最長50日)が過ぎれば、通常通り神社へ参拝や神棚のお参りをしていただいて差し支えありません。

 

お正月の過ごし方について

喪中で迎える年末年始は、正月のお祝い事は控えて過ごすのが一般的です。
では、具体的には何がOKで、何がNGなのでしょうか。
ひとつずつ確認していきましょう。

正月飾り

喪中の正月には、お正月飾りは控えます。
門松や鏡餅、しめ縄などは神道の習慣なので、神道の忌明けとなる四十九日以降は飾っても差し障りはないという意見もありますが、実際には行わないのが一般的です。

年越しそば・おせち料理

おせち料理は正月の祝い料理なので、喪中のときは控えます。
特に、鯛や海老、紅白のかまぼこなど、めでたいことの意味合いで食す料理は避けるようにしましょう。
ただ、そうしたものを除いて、普段の料理としてであれば、食しても問題はありませんし、お雑煮もお供え物の餅を避けて、普段の食べ物として質素に食べるのであれば大丈夫です。

一方、年越しそばについては、「長寿を願う」や「1年の厄を落とす」という意味で食べられているものであり、祝い事とは関係ありません。
喪中でもお召し上がり可能です。

お年玉

お年玉のもともとの意味は、”神様からのおくり物”なので、本来は喪中には避けたいところです。しかし、近年は儀礼的な意味は薄れ、実家や親戚からの”お小遣い”の感覚で渡されています。

子どもたちがお年玉を楽しみにしているので何かしてあげたいという場合は、おめでたい柄のポチ袋を避け、表書きを”お小遣い”や”書籍代”などにしたりして渡すのであれば可だと思います。

年賀状を受け取ってしまったら

ご不幸があった場合、年賀状は差し控えます。
「喪中ハガキ」を前もって出すのが一般的です。
ですが、「喪中ハガキ」を出していない方から年賀状を受け取ってしまった場合はどうしたら良いでしょうか。

その場合は、年賀状として返信することは避け、”寒中見舞い”を出すことで対応します。
1月7日を過ぎてから、寒中見舞いを出し、その際に「お知らせできずに申し訳ありませんでした」と一言添えておくと丁寧です。

まとめ

「身内のご不幸:喪中の際の初詣・神社参拝、お正月行事のNGまとめ」としてお調べしてみましたが、如何でしたでしょうか

喪中でお正月を迎えることも、なかなかないことではありますが、もし万が一そのようなことが起きた場合でも、慌てることなくスマートに対応できるのが大人力ということでしょうか。

ともあれ、「喪中」と「忌中」をきちんと理解した上で、できることやっていいこと悪いことを理解するためにも、「ご不幸:喪中の際の初詣・神社参拝、お正月行事のNG集」について、時折思い出していただけたら幸いと考えます。

ここまでお読み頂きまして、ありがとうございました。

 

【2021最新】年賀状を辞退したいと思った時:年賀状じまいを丁寧に行うマナーと文例

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新年のご挨拶としての年賀状。
最近はニュース等でもご存じの方も多いかと思いますが、年々、年賀状の出状枚数が減ってきています。
SNSやEメールなどで普段から頻繁につながっている現代、いわゆる“年賀じまい”の傾向は年々進んでいくものと思われます。

師も走る年末の慌ただしい時期に、デザインを考え宛名書き、出し忘れのチェック、喪中の方への配慮、一言コメントなど、結構な労力を伴うもの。

さらには増税の影響により、2019年の年賀状からは1枚当たり10円アップ(20%UP)と経済的にも負担が増します。
手間も暇もなくなりつつあるこの現代、もっと便利なツールを使い慣れてしまった私たちにとって、手書きの年賀状作成は、正直なところ結構な負担ではあります。

とはいえ、毎年の恒例行事として続けてきた年賀状をいきなり辞めてしまうのは……。という方も多いかもしれません。

そこで、年賀状をそろそろやめにしたい、そうお考えの方へ、“年賀じまい”のスマートなやり方について調べてみました。

「年賀状をやめたい 辞退したいと思った時:年賀状じまいを丁寧に行うマナーと文例」をお送り致します。

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年賀状の当初発行枚数推移
※売上予想は日本郵便公表の当初発行枚数に切手代を乗じて算出

年賀状の歴史・あらまし

ところで、年賀状ってなんで送っているのでしょうね…
なんとなく、気がついたら、毎年年賀状を作っていた気がします。

「年賀状をやめたい 辞退したいと思った時:年賀状じまいを丁寧に行うマナーと文例」の前に、念のため年賀状の歴史について確認しておきましょう。

出典:ウィキペディアより抜粋

日本では、起源ははっきりとはしないが、奈良時代から新年の年始回りという年始の挨拶をする行事があった。平安時代には貴族・公家にもその風習が広まって、挨拶が直接行えないような遠方などの人への年始回りに代わるものとして、文書による年始挨拶が行われるようになった。

近世には武家社会において文書による年始挨拶が一般化したほか、非武家社会においても口頭の代用として簡易書簡を用いることが年始挨拶に限らず一般的になり、公的郵便手段である飛脚や使用人を使った私的手段により年始挨拶の文書が運ばれるようになった。
明治維新後の1871年、郵便制度が確立したが年賀状は書状で送るところがほとんどで、数は決して多くはなかった。1873年郵便はがきを発行するようになると、年始のあいさつを簡潔に安価で書き送れるということで、葉書で年賀状を送る習慣が急速に広まっていった。
1887年頃になると年賀状を出すことが国民の間に年末年始の行事の1つとして定着し、その結果、年末年始にかけて郵便局には多くの人々が出した年賀状が集中し郵便取扱量が何十倍にもなってしまった。

年賀じまいのスマートな方法について

相手に対して失礼にならないよう、かつ、スマートに年賀状を止める方法ですが、お送りする方のタイプ別に主に選択肢は2つあります。

○口頭、メール、LINEなどで年賀じまいをお伝えする
○年賀状、寒中見舞いで年賀状を終了することを宣言する

つまり、年賀状をお送りする対象者のうち、職場の方や友人など比較的身近な人に関しては、年末を迎える少し前(年賀状を書き始める前が妥当)に口頭やメールなどにより、来年の年賀状からは差し出しを控える旨をお伝えする。

そして、普段疎遠な先輩や遠方の方、交流の少ない知人に関しては、年末作成してお送りする来年の年賀状に、今回限りで年賀状を終了する旨を書き添えるのがスマートです。

スマートなお伝えの仕方(口頭ベース)

出来るだけ丁寧かつ簡潔に理解を求めるのが無難です。
”普段から連絡を取り合う仲だから、年賀状は来年から控えようと思うんだ”
親しい人には、このように伝えれば大丈夫です。

スマートなお伝えの仕方(書面ベース)

来年の年賀状まではお送りし、その年賀状の中で終了宣言を行います。
または、新年の年賀状をくださった方のうち、目上の方や親戚には、寒中見舞い(1〜2月)としてお礼のハガキを送り、その中で終了宣言をするという方法もあります。

ただ、単純に「年賀状を出すのを辞めます」という文面だけだと、ご縁を切られるのだと誤解を招くリスクがありますので、文中には必ず、“年賀状は送らないけど、今後とも個人的なお付き合いはよろしくお願いします”などといった文面を添えてください。

これは、今後のお付き合いを考えていなくても、マナーとして文中に入れておく方が無難です。※このページの最終に文例を作っています。

年賀じまいの守るべき注意点・ポイント

手書きにしないこと

この様な書状をもらう立場になって考えると、手書きの場合、特定の相手に送っているのではないか?…と思われないようくれぐれも注意したいところです。

つまり手書きだと、ちょっと重いメッセージ(縁切りが強くなる)になるため、あくまでも形式的に、みんなに送っているというニュアンスがはっきりと分かるように、印刷したものをお送りする方がベターです。
出来るだけ機械的に見えるほうが逆に相手に悪い印象を与えないで済むはずです。

こちらの意図をしっかりと誤解なく伝えること

年賀じまいをお送りした場合、受け取られる方との人間関係によっては、“迷惑でないのなら返事はいただけなくても、こちらの年賀をお送りしても良いのかどうなのか確認したい”と、丁寧な方はそのように考えられるケースが想定されます。

自分からは送らないけれど頂戴できる年賀状はありがたく受け取ります”と思われてしまうケース

「今後の年賀状は失礼いたします」
「遠慮させていただきます」
この様に文面に記載した場合は、こちらがが年賀状を遠慮するだけで、受け取るのは構わないと思われる可能性があります。

気を遣うので受け取りも遠慮したい”ケース

「辞退させていただきます」
という文言を記載がある場合は、より強めのニュアンスで、気を遣うので受け取りも遠慮させてほしいという意図を解釈してもらえると思います。

ただし、実際のところまだあまり、年賀じまい自体が広くあまねく認知されていない現在では、受け取る方もそこまでの意図を汲み取ってくれない可能性があります。

そこで、はっきりと“交換は遠慮させていただきます”
と失礼のない様にお伝えし、お送りも受け取りも遠慮したい、というニュアンスを明確にお伝えするが良いです。
対応を誤ると、翌年も年賀じまいを送ることになります。2年連続はさすがに避けたいですよね…

終活年賀状を受け取った場合の返事はどうする?

さて、逆に年賀じまいを受け取った場合、年賀じまいに返事を出すべきでしょうか?それとも遠路するべきでしょうか。
年賀じまいに返事を出すこと自体は決して失礼にはなりませんが、受け取りも億劫になっていらっしゃるご高齢の方に対しては、少ししつこい印象を与えてしまう可能性があります。

なので、以下の様な対応がスマートではないかと考えます。

パターン1. 
年始前に相手から年賀じまいのご連絡があった場合
「年賀じまいとのこと、承知いたしました。さみしくなりますが、これまで長い間お付き合いいただき、誠にありがとうございました。今後も○○様のご健康を祈念致しております。」
と記載して寒中見舞い(1〜2月)のお返事を出す。

パターン2.
 届いた年賀状で年賀じまいの知らせがあった時は、そのまま受け取るだけで返信はしない。
また、 こちらからの年賀状は送り続けたいというケースはどうでしょうか。

この対応は気を遣います。

まず、取り急ぎ年賀状を送るのはやめましょう。
そして、別途連絡をとるか面会の機会があった時に、年賀状を送っても迷惑ではないか、直接尋ねてみるのが無難です。

まとめ

如何でしたでしょうか。
日本の伝統文化ともいえる年賀状のやりとりですが、最近では海外移住を機に年賀じまいをされる方や、終活の一環で年賀状のやり取りを辞退される方などが増えました。

昨今ではスマホSNSの普及で、いくらでも便利なツールを使って、瞬時にお相手の現状や消息を確認できますので、“時代とともに役割を終えていく”文化なのかもしれませんね。

 

“年末、年賀状を出さなくなる”…圧倒的に気分が軽くなる気がします(笑)
「年賀状をやめたい 辞退したいと思った時:年賀状じまいを丁寧に行うマナーと文例」として、まとめてみましたが、皆さんの年末の過ごし方に少しでもお役に立てましたら幸いです。

ここまでお読み頂きまして、ありがとうございました。

巻末付録:年賀じまいの文案

以下のように書面で意向をお伝えすると失礼はないでしょう。
よろしければ、ご参考にしてみてください。

文例①

新年あけましておめでとうございます。
私も、今年で○○歳を迎えることになります。
高齢により、少しずつ身の回りの整理整頓を開始しており、また、これまでのようなお付き合いを続けることも難しくなってまいりました。本年をもちまして、年始のご挨拶を失礼させていただきたいと思います。非礼をお詫びいたしますとともに、今後とも変わらぬお付き合いをどうぞよろしくお願いします。

文例②

新年あけましておめでとうございます。
甚だ勝手ではございますが、来年より年賀状でのご挨拶をどなた様にもお送りしないことと致しました。何卒ご了承のほどお願い申し上げますとともに、何かございましたら、下記メールアドレスへご連絡を頂戴できましたらと存じます。
勝手ですが、これまでどおり変わらぬお付き合いを頂けると幸いでございます。
メールアドレス:xxx@yahoo.co.jp

【2021年最新】参拝の作法とマナー|神社・お寺の参拝で気をつけるポイント4つ

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神社やお寺に参拝すると、気持ちがしゃきっと整います。
時代は移れど、日本人は昔から、人生の岐路を迎えた時、あるいは1年の年越しのタイミングで、神社やお寺にお参りをしますが、その目的のひとつは、神様への願掛けではないでしょうか。

でも、その神様へのお願い、きちんとできているのでしょうか?

”今年こそ宝くじが当たりますように!”、”彼氏(彼女)ができますように!”
など…お願いは人それぞれですが、いくら樹齢1000年の木がパワースポットとはいえ、いくら千手観音の手が1,000本あるからとはいえ、「とにかく神様、よろしく!」って感じでは、さすがの神様もお困りになると思われます。

そこで、正しい順序と振る舞いで参拝を行うことで、願いを成就させたり、運気を上げていこうというのがこの記事の狙いです。

「参拝の作法とマナー|神社・お寺の参拝で気をつけるポイント4つ」として、記事にまとめてみましたので、一緒に確認して参りましょう。

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参拝の作法(マナー)と基礎知識

お寺と神社で参拝方法が異なる理由

神社やお寺を参拝する際には、それぞれ参拝方法やルールが異なります。
そのルールとは一言でいうと、「神様と仏様、どちらを拝むのか」の違いからきています。

まず神社ですが、そのベースは「神道」という宗教に基づきます。祭主(さいしゅ・まつりぬし)は、天皇陛下ですね。

神道において、神社とは、”神様が住まう場所”とされています。
自然のありとあらゆる万物に宿る神様は八百万(数多くの意味)もいらっしゃり、神社にお祀りし、感謝と畏敬の念を神様に表しつつ、願掛けをする場として古来より人々に親しまれてきました。
神道の形式を整えたのはさかのぼること2600年ほど、遺跡の発掘では、縄文時代までさかのぼることもできるようです。
ちなみに、神道の初代祭主は神武天皇ですが、西暦に660年を足すと神武天皇天皇即位から起算する”皇紀”という暦となります。
西暦よりも660年も前から、日本国の天皇がいらっしゃたのですね。

神社での参拝では、願掛け後、満願成就の場合には、改めてお礼参りを行うという習慣もありますので覚えておいて下さい。

一方のお寺、もともとは”仏様と一体になる場”として建てられています。
この考え方自体、現代ではすっかり廃れている感は否めませんが、まさに今この瞬間も、僧侶の皆様は仏様の御心に到達するために戒律を守り、念仏を唱え、日々の勤めに励んで仏様にお仕えされています。

従って、お寺の参拝は、本来的には願掛けの場ではなく、参拝者は無心となってお経を唱えたり、写経の納経(書いたお経を奉納する)を行ったり、座禅を組んだりと、一種、修行のような行為を行うことで、仏様の御心に近づこうとする場なのです。

が、現代的には参拝者は、自身のご利益の祈願を行う場となっています。

神道は日本の誕生から存在していますが、「日本書紀」によると、仏教が日本に伝来したのは、飛鳥時代の西暦552年(欽明天皇13年)とのこと。
もともとは外国から輸入した文化となります。

従って意外と大きな違いがあるので少し驚きかもしれませんが、そもそもの成り立ちや目的が違うのですから、大きく異なるのは自然といえば自然です。

参拝をする私たちが、その点をよく踏まえておくことが大事なのですね。

参拝で気をつけたいポイント①運気が上向く参拝のマナー

参拝に適した時間帯は?

神社への参拝は、早朝から午後2 時までの時間帯がベスト。
風水的にこの時間帯は「陽」の時間帯とされ、とくに午前中は気が充満するので、運気の吸収率も高まります。
遅くても16:00までには鳥居をくぐるようにしましょう。

それ以降は「陰」の気が強くなる時間帯となり、運気を吸収しにくくなります。

一方、お寺には参拝を推奨する時間帯は特になく、いつお参りをしても大丈夫です。

参拝に適した服装は?

神社やお寺を参拝する場合の服装は、特に厳しい決まりはありません。
お寺での法事や法要、神社で祈祷を受ける場合などは正装を心がけて、それ以外でしたら参拝する際の服装は原則自由で良いと思います。

ただし、神社には神様が、お寺には仏様がいらっしゃる聖域ですので、殺生を連想させる服装やアクセサリーは慎む必要があります。
具体的には、毛皮のコートや襟巻、レザージャケットや革製品のアクセサリーなどがそれに該当します。
日常過ぎて何気なく身に付けていることが多いと思いますので、参拝前に少し注意が必要かもしれません。

もうひとつ気をつけたいのは、だらしのない服装。
あまりにもよれよれのTシャツや着古しのジャージ、露出の多い格好はふさわしくなく、女性ではミニスカート、男性ではタンクトップなどは避けた方が無難です。

参拝に適した日にちは?

人によって時々、六曜(先勝・大安・友引・赤口・仏滅など)と関連づけて、吉日のタイミングを見計って参拝される方をお見受けします。
しかし、六曜と神社、お寺の参拝とは全く関係がありません。
神社、あるいはお寺の参拝において六曜は気にする必要はなく、基本的にどの日に参拝を行なっても不幸・不運になることはありません。

六曜の用語には、「仏滅」や「大安」などという、一見、仏事と関連のあるように思われる言葉が多く使われていますが、そもそも六曜は14世紀に中国から日本に伝来した暦注(れきちゅう:暦に記載される方位などの吉兆)で、仏教との関係はありませんのでご安心下さい。

 

参拝で気をつけたいポイント②実は大切な参拝前の「事前の準備」

参拝前にはお願い事を明確に

数多くの参拝者からお願い事をされる神様、「お金がほしい!」「彼氏がほしい!」と言われても、どこの誰からお願いされているのかを明確にしないと聞き取ることもできるはずなく。
そして、参拝者のあまりにも一方的な”お願いしたんだからよろしく”的な姿勢では、願い事を叶えてもらえると思う方がどうかしていますよね。

そうではなく、”何をしてお金を得たいのか”、を、より具体的にし、目標を達成するためのあなたがどの様な努力を行うのかを神様に示した方が、聞き届けてもらえるのではないでしょうか。

<例>こんな感じでお願いすると願いが成就すると思います。

良縁:
早々に結婚を真剣に考えています。パートナーを幸せにできるよう、自分を磨く努力を重ねて参りますので、良い出会いを授けて下さい。

無病息災:
妻に子供が授かりました。妊娠中は無病息災で、私も全力で妻を支えますので安産となりますようご支援をお願いいたします。

商売繁盛:
これまで以上に仕事に邁進して参りますので、昇給・昇進ができるようお力添えをお願いしいます。来年にはマイホームの頭金を貯金できるよう、プロジェクトでも成果が出せるよう全力を尽くしますのでお力添えをお願いします。

最後に、氏名、住所をお伝えすることもお忘れなく。

お賽銭の金額の相場、みんなはいくらぐらい?

定番は、“5円(ごえん)=ご縁(ごえん)”です。
オーソドックスですが縁起を担ぐには語呂合わせが良いとの昔からの習わしです。
硬貨に穴が空いているので”見通しが良い”ともいわれ、縁起を大切にする参拝にはうってつけではないでしょうか。
その他にも次のような語呂合わせがありますのでご参考まで、決して親父ギャグではないですからね。

また、お賽銭は、神社では神様への捧げ物、お寺ではお布施の性質があり、決して”願いを叶えてもらうための料金”ではありません。
高額なほうが願いが叶うということではないので、身の丈にあった額で大丈夫です。
ただし、お金を投げ入れるのは本来避けたいところ、そっとお賽銭箱に入れるよう心掛けてください。

語呂の心地よいお賽銭の額

  • 5円 … ご縁
  • 11円 … いい縁
  • 15円:充分ご縁
  • 20円 … 二重に縁
  • 25円 … 二重にご縁
  • 115円 … いいご縁
  • 415円 … よいご縁
  • 485円 … 四方八方ご縁

また、一説では、硬貨をハレの色として親しまれている紅白に見立てて、お賽銭をされる方もいらっしゃるそうです。
5円、10円が赤系、1円、50円、100円、500円が白系ですね。

参拝で気をつけたいポイント③神社とお寺のそれぞれの参拝のお作法

お寺での参拝の手順

 山門(三門)で拝礼
山門(三門と呼んでるお寺もあります)は、仏殿への入口です。
お寺は悟りを得るための修行の領域なので、一礼してくぐるのが望ましいです。
大きなお寺や由緒あるお寺に参拝すると、山門の左右に仁王像が建立されている場合がありますので、その場合は両像にも手を合わせましょう。
山門に敷居がある場合、敷居は踏んではいけません。

お寺の参道は、神社とは異なり神様の通り道ではありませんので、どこを通っても大丈夫です。

手水舎で身を清める
山門を抜けると手水舎(ちょうず・ちょうずや)があります。
手や口をすすぎ、参拝前に穢れを流し清めます。

・右手に柄杓(ひしゃく)を持ち、左手に水をかけて清め
・次に左手に柄杓を持ち替え、右手に水をかけて清め
・清めた右手に水を溜め右手に汲み取った水で口を清め
・終わったら、柄杓を縦にして持ち手のところに水が伝わってくるようにして柄杓を清めて終わりです。
手水舎はお寺によってはないこともありますので、その場合は本堂前に進みます。

常香炉があれば煙で体を清める
常香炉は、仏様にお香を供える場です。
そのお香の煙を浴びることで心身を清め、体の悪い部分に煙を浴びることで痛みが緩和・治癒されるともされています。
お香を浴び終わったら、清らかな気持ちでいよいよ本堂に進みます。

御本尊に参拝
・お賽銭を入れます。
お賽銭は、”お布施”の性質があるものなので、欲や執着を捨てるための修行のひとつとされています。なので、決して無造作に投げ入れるのではなく、感謝の気持ちで賽銭箱にそっと入れて下さい。

・静かに手を合わせて祈願します。
鈴が設置されているお寺でしたら、鈴を3回鳴らします。
ご利益の願掛けをした後、”御本尊のお名前の前に「南無」を付けて唱え”、手を合わせたまま深くお辞儀をします。

・最後に、参拝を終えた事に感謝し、一礼して下がります。

神社での参拝の手順

鳥居で拝礼
鳥居は、俗界と神様のいる聖域との境目を示す重要な結界です。
必ず一礼して、帽子やサングラスは外し、敬意を表してからくぐります。

由緒ある神社や規模の大きな神社では、参道上に複数の鳥居があります。
その場合、階段を踏んで神聖な場所に近づく意味があるため、一の鳥居から順番にくぐることを心がけて下さい。

またお寺とは異なり、神社の参道中央部分は「正中(せいちゅう)」と呼ばれる神様の通り道にあたりますので、参拝者は正中を避けて左右の端(一般的には左が多いのですが、伊勢神宮などは、”外宮左・内宮右”など、それぞれローカルルールがあります)を歩くのが作法です。

初詣の際も基本は同じですが、混雑している場合は各神社の指示や人の流れに従いましょう。

手水舎で身を清める
鳥居を抜けると手水舎(ちょうず・ちょうずや)があります。
手や口をすすぎ、参拝前に穢れを流し清めます。

・右手に柄杓(ひしゃく)を持ち、左手に水をかけて清め
・次に左手に柄杓を持ち替え、右手に水をかけて清め
・清めた右手に水を溜め右手に汲み取った水で口を清め
・終わったら、柄杓を縦にして持ち手のところに水が伝わってくるようにして柄杓を清めて終わりです。
手水舎は神社によってはないこともありますので、その場合は拝殿前に進みます。

神社(拝殿)に参拝
・お賽銭を入れます。
鈴が設置されている神社でしたら、お賽銭を入れる前に鈴を鳴らし、神様に来訪をお知らせします。
お賽銭は、神様への捧げ物という性質があるものです。決して無造作に投げ入れるのではなく、感謝の気持ちで賽銭箱にそっと入れて下さい。

・「二礼二拍手一礼」
 ・拝殿に向かって2度、深くお辞儀をします。
 ・胸の高さで手を2回、拍手します。
 ・手を揃えたまま、神様へ感謝と祈願を伝えます。
 ・祈願が済んだら、1回深くお辞儀をして下がります。
・最後に、参拝を終えた事に感謝し、一礼して下がります。

参拝で気をつけたいポイント④御守と御朱印をいただくための作法

お守りは先に買うのがおすすめ

神社でもお寺でも、参拝が終わってから授与所などに出向き、御朱印や御守り、絵馬、おみくじなどを購入されることが多いと思いますが、御守りに関しては、是非おすすめの購入方法があります。

それは、”参拝の前にお守りを購入する”です。
本ブログでは、参拝の事前準備として、”願い事を決めてからお参りする”ことを推奨していますが、ということは、願い事も参拝前には決まっていることと思います。

金運、商売繁盛、無病息災、良縁招来…願い事は人それぞれで良いのですが、要はお願いする事柄に適した御守りを先に購入し、その御守りを手に参拝をすることで、その願いがしっかりと凝縮した御守りが完成するのです。

参拝後は、願いの詰まった御守りを肌身離さず持ち歩くことで、常に願掛けの状態を継続することができます。
是非お試しください。

御朱印は参拝が終わってからがルール

御朱印をいただくのは参拝をおえてから”が鉄則です。
心をこめて参拝し、感謝の気持ちで御朱印をいただきましょう。
※一部、参拝者の多い社寺の場合、参拝前に御朱印帳をお預けるよう指示をされる場合があります。社寺の指示に従ってください。

御朱印をいただいている際のお喋りや飲食は失礼にあたります。
並んでいる時も同様で、おごそかな気持ちで御朱印をいただくようにしましょう。
携帯電話やスマートフォンでの会話やメールなども控えましょう。

御朱印の起源は江戸時代にまで遡り、元々は“納経印”とも呼ばれていました。諸説はありますが、四国八十八箇所霊場詣りや七福神めぐりなどの巡礼から始まったようです。
つまり元々御朱印は、お寺に写経を納めたときに“信仰の証”として頂く大変尊いものなのです。

時代は下り、現代では、納経をしなくても“参拝の証”としてもらえるカジュアルなものになりました。信仰が少しずつ廃れ、写経をされる方が激減したためと思われます。

御朱印をいただくと、そこには、神社やお寺それぞれの異なる特長的なデザインが描かれています。
社寺の名称を書いたもの、仏様の教えや経文を書いたもの、どれとして同じものはありません。
すなわち御朱印とは、御守りや御札と同じく、ご神体やご本尊の分身として、私たちを守ってくださる神様や仏様そのものなのです。
決して粗末に扱ってはいけないものであること、そして、お参りされた方がお亡くなりになった際には、棺に一緒に入れてあげることで、極楽浄土へ導かれるとされていますので、”そのとき”がくるまで大切に扱いましょう。

まとめ

「参拝の作法とマナー|神社・お寺の参拝で気をつけるポイント4つ」として記事にまとめてみましたが、如何でしたでしょうか。

日本には古来より”神道”という信仰がありました。
神道では八百万に神が宿るという、アミニズム(自然崇拝)から発展した、大変おおらかな宗教観を持っていました。
そこに、大陸から仏教が伝来し、仏教の仏様も神様が姿を変えたものであるという、あるいはその逆も然りという世界的にも大変珍しい”神仏習合(しんぶつしゅうごう)”の考え方が根付き、現在に至っています。

思えば、クリスマスやハロウィンなどといった西洋の宗教行事を、日本風にアレンジし楽しめるイベントに変え、今では逆に海外から日本のハロウィンを楽しみに観光客がやってくる、日本とはそういうなんでも自分達用にうまく創りかえることに長けた民族なのかもしれません。

ただ、参拝はお寺では仏様に、神社では神様に、日頃の感謝をお示ししつつ、願い事が叶うよう願掛けを目的に行う行為です。
できるだけ失礼のないよう、作法やルールに則って行う方がご利益が得られるのですから、参拝を行う以上、きちんとそれぞれの作法を踏まえた行意ができるようにした方が気持ちも良いと思います。

皆さんも、神社やお寺に参拝される際には、ことさら堅苦しくなる必要はありませんが、作法を少し意識してみては如何でしょうか。

御利益と運気アップにつながるものと思います。
「参拝の作法とマナー|神社・お寺の参拝で気をつけるポイント4つ」ここまでお読み頂きまして、ありがとうございました。

フェルミのパラドックスと収斂(しゅうれん)進化の不思議

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この宇宙には地球人類以外の文明は存在するのか?

私たちは時々夜空を見上げて、宇宙の不思議について考えを巡らせます。
ん?夜空を見上げなくても、あなたが今立っている場所も宇宙の一部なんですけどね…

この宇宙には、1兆個×1兆個の恒星が存在していると言われています。
また、私たちの銀河系に限っても1,000億個の恒星が存在しています。
そして、それぞれの恒星系には信じられないほどのおびただしい惑星が存在しており、必然、生命の誕生に適した惑星も多数存在することは間違いありません。
と、よく言われるのですが、本当にそうなのでしょうか?

私たちの地球では知的生命体が誕生しました。他の惑星でも知能を持つ生命が発生しているはずだという推測は普通に考えれば非常識な考えではないように思われます。
しかしながら、現在の私たちが知る範囲において、地球以外の生命についての存在は(未だ)確認ができていません。

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フェルミパラドックス

イタリア人物理学者エンリコ・フェルミ(1901〜1954)は、「彼らはどこにいるんだ?」といいました。「彼ら」とは地球外の生命体のことです。
フェルミは言います。何故我々は未だ地球外生命体にお目に掛かっていないのだろうか?地球は宇宙の中で比較的若い星系に属しているため、もしも文明をもった生命体が他にいるのであれば、すでに地球を訪れていてもおかしくない…しかし実際には地球にそのような来訪者は未だいないようだ…

この70年前にフェルミが提唱したパラドックスは、大いに科学者たちを悩ませてきました。
宇宙文明の探索プロジェクトであるSETIはこれを「大いなる沈黙 (the Great Silence)」と呼んでいます。
宇宙における知的生命体の誕生は(統計的に)必然であると考えられているため、このパラドックスについて数々の考察が行われてきました。

例えば「海中に住んでいて宇宙進出してない」・「宇宙旅行に時間がかかるから(まだ)地球まで来ていない」・「地球に興味がない」・「宇宙人たちは皆もう死んでいる」・「我々こそが彗星に乗って地球にやってきた宇宙人だ」みたいなものから、「宇宙人は他文明と接触することを懸念している」や、「政府機関や宇宙の権威者が他の宇宙文明との接触を妨害している」といった陰謀論めいたものまであります。

高度な文明を発展させた知的生命体はいない?

ここで、宇宙生命体の存在について、2つの考察をご紹介します。
まずはフェルミパラドックスに対する最もシンプルな考察から。

「高度な文明を発達させた知的生命体は存在していない」
という天文学者のダニエル・ウィットマイヤー氏の説です。

彼は、「星間通信や宇宙航行を可能とするような高度に発展した文明の持続時間は、ごく短いものであることが示唆される」と主張しています。

ウィットマイヤー氏の主張では、「人類が特別な存在ではなく、宇宙における一般的な文明だとした場合、数百万年間発展を続け、恒星間飛行を可能とするほどに進歩する宇宙文明の存在確率は、極めて低いものである」と説明しています。

つまり、人類の文明発達がどの惑星でも一般的なケースに該当するのであれば、今のところ地球上では何らかの電波の送受信機器やロケット開発を可能とした工業文明は、およそ1世紀程度しか持続していないので、文明の持続期間が他の地球外生命体でも同等とみなせば、今現在我々が観測できる範囲内において地球外文明は存在しないことに対する説明が付けられると主張しています。ほう…

実際のところ、今現在我々自身が直面している数々の課題・問題点も加味して考えると、少し見えてくるものがあります。
すなわち、知的生命体がひとたび工業文明を発達させる段階に達した場合、(おそらくは)その生存している惑星において、人類の時間で数世紀のうちに、惑星に存在していたエネルギー資源と非再生可能資源を枯渇させ、生存基盤である惑星の環境を破壊し、その後は工業化以前の文明レベルに衰退するのではないかと考えられるのです。

これは「人類は特別な存在ではない」という仮定と、「宇宙に地球外知的生命体の存在が確認できない」という観察事実から論理的に導かれる結論としては、的外れではない気がします。

収斂(しゅうれん)進化について

天文学ではなく生物進化の観点から、収斂進化を用いて考察してみます。

収斂(しゅうれん)進化とは、全く別の過程を経て同じような姿・特徴に進化した生物のことを指します。
同じ進化の過程を経て同じような姿である人と猿のような場合は収斂進化とは言いません。
分かりやすい例は、サメ(魚類)とイルカ(哺乳類)、ジンベイザメ(魚類)とクジラ(哺乳類)などが挙げられます。あくまで進化上、大きく違う過程を経て同じような姿・特徴になった生物を収斂進化と呼びます。

地球上では、様々な種において収斂進化が起きたことが知られています。

鳥(鳥類)と、トンボ(昆虫)と、翼竜(恐竜)が別々の進化を経て“空を飛ぶ”能力を身につけたことは、収斂進化の格好の素材と言えます。
であれば、地球外生命と人類との間でも収斂進化が起きてもおかしくないのではないでしょうか。
つまり、人類が手にしたテクノロジーについても地球外生命体が収斂進化を経て手にしていてもなんらおかしくないと考えられ流のではないでしょうか。

ただし。収斂進化にも限界があるようです。
というのは、確かに“空を飛ぶ”や“泳ぐ”などの能力は、種をまたいでその能力を獲得しているケースが見られるものの、“言葉を話す”や“半導体を組み立てる”などを行えた種は、地球上では人類のみなのです。

会話によるコミュニケーションもそうです。
確かに言葉を使わないコミュニケーションを行う種はいますが、より複雑で論理的な、つまり、集団で狩りができ、食料の保存方法を代々伝えるようなことはできませんし、ましてや道具を組み立てることができるよう収斂進化を遂げた例は地球にはありません。
とすると、空を飛んだり、水に潜ったりする地球外生命体はいても、もしかしたら我々人類のようにテクノロジーを獲得できた知的生命体というのはこの広い宇宙を見渡しても、出現していないのかもしれません。

【警鐘】地球外生命体との接触について

 

 

人類が宇宙の観測を始めたのは紀元前3,000年のメソポタミアまで遡ると言います。
その頃には1年の長さがだいたい決まっており、農耕をするための雨季を計算していたそうです。本格的に人類が宇宙に観測の目を向けたのは1608年にオランダで望遠鏡が発明されて以降となります。日本では徳川家康江戸幕府を開いた頃(1603年)ですね。

1609年ガリレオ・ガリレイが天体観測を開始し、その後地動説を唱えたり、それを理由にカトリック教会から有罪判決を受けたりと、宇宙観測が本格化してからは重大かつ新しい発見が次々と世に発表されました。

宇宙を知る取り組みは、1960年アメリカで「オズマ計画」と称した電波望遠鏡を使った地球外知的生命体に関する調査が開始され、現在もこれらの調査は継続されており、現在世界ではSETI(セティ)プロジェクトとして進行しています。

もしも高度な文明を持つ知的生命体と遭遇したら

私は子供の頃、「ウルトラマン」という大人気特撮ヒーローを熱心に観ていました。
街を破壊する怪獣をウルトラマンが人類に代わって退治してくれる、内容はそのようなものでした。実は当時「ウルトラマンが人間の味方で良かったな〜」と子供心に思ったりしていました。

さて、高度な文明を持つ地球外生命体の調査は、彼らが人類を快く思ってくれる前提で進められているようですが、なぜそう思うのでしょうか?
本当にウルトラマンがいたとして、そして無事コンタクトができたとして、ウルトラマンが人類ではなく怪獣をやっつけてくれると思う根拠はなんなのでしょうか?

生物の歴史は発生、分化(進化)、そして絶滅の歴史といえます。私たちの星地球では、およそ直近6億年の間に、誕生した生物の90%以上が絶滅したといわれています。

西暦1600年以降の生物の絶滅はほぼ人類によるものです。
いわゆる近代を迎えてからは、とりわけ急激な種の絶滅が進みました。種として記載された動物で、しかも絶滅が確認された種は600種以上。飼育下でのみ生き残っている種は30種を数えます。

地球上にいた野生生物が、人類という“野生生物と比較すると比較的高度な知的生命体”と言える種に接触した場合でもこのようなおびただしい数の絶滅が起きています。

ウルトラマンがウルトラアリとして、人類ではなく蟻の味方をする可能性や、ウルトラウィルスとして、インフルエンザと結託して人類を根絶やしにしようと思うかもしれない可能性を考慮に入れると、人類は高度地球外人との接触をこのまま続けるべきではないのではと思えるのです。

さらに列挙します。大航海時代に植民地とされたアフリカ大陸諸国、南米、絶滅に追い込まれた北米インディアンの人々しかり、オーストラリアのアボリジニーしかり。パワーに隔たりのある文明との接触は弱者の財産や文明をとことん根絶やしにするまで支配を続けます。私たちはそのことを歴史の事実として学んでいます。

宇宙のロマンとして地球生命体との交信を試みるのは、万が一我々よりも高度な文明を持つ地球外人と接触してしまった場合のリスクについて、一部の科学者や研究機関の独断ではなく、全人類の合意を持って進めるべきプロジェクトではないかと考えます。

繰り返しますが、むやみに地球外生命体との交信を行うことは厳に慎まなくてはなりません。
ハリウッド映画で、地球外生命体との接触を扱った作品は多いですが、”ET”などに見られるフレンドリーな接触はおそらく起こりません。

なぜか?知らない相手を丁重におもてなしするなんて事は地球では起きていません。
我が星のこれまでの歴史では、高度な知能や文明を持つ側が、調査の名の下に実験の被験者として解剖したり、教育や布教の美名のもと文化・文明や言語を破壊したり、最悪、食用に家畜にしたりといった事が繰り返されていきました。

もしも地球文明よりも高度な生命体と接触した場合、よくて家畜、最悪の場合、文明を根底から破壊されることを覚悟しておくべきと、あらゆる学者や科学者が警鐘を発していることをお伝えしておきます。

キラッと空が光った次の瞬間、大勢のウルトラガチョウが宇宙からやってきて、世界中のフォアグラ製造工場で無理やり餌を喉に流し込まれているガチョウを人類から解放し、地球をガチョウの手に取り戻すために人類を成敗する…ある日突然、そんな未来がやってくるかもしれませんね。